京極夏彦『文庫版 塗仏の宴 宴の始末』読了(再々読)。

文庫版 塗仏の宴 宴の始末 (講談社文庫)

文庫版 塗仏の宴 宴の始末 (講談社文庫)

『支度』と『始末』はそれぞれ独立した作品だから片方だけを読んでも構わないし、『始末』を先に読んでもよい、と云う著者のありがたいお言葉を読んで以来、いつか『始末』→『支度』の順に読んでみたかったのだけど、3読目の今回にしてようやく逆順に読んでみた。
結果的には確かに順番はあんまり影響しない。『支度』を読んでないと理解できない点ってのはないと思うし。ただ、色んな団体や人が出てくるがそれが一体どう云う背景を持った団体・人なのかがほとんどわからないから、なんとなくたくさん現れてひっちゃかめっちゃか騒いで通り過ぎるだけ、という印象になる。まあそれこそが「宴」だということだろう。なので単独で読むとどうしても奥行きが浅く見えると云う感想を持つ人もいるかもしれない。
ただその後、『支度』を読んで改めてわかったことだが、これ『支度』を読んでようと読んでなかろうとほとんど印象は変わらないと思う。背景を知ってようが知らなかろうが奥行きなんて生まれない。底の浅いつまらない作品だと云うんじゃなくて、こういうわーっと騒いでそれでお終いな作品なんだと。
その意味で清涼院の、読む順番を変えると真相や印象が一変する(と作者が主張する)作品とは好対照かもしれない、なんてことを思った。